日記/甘栗の皮が剥けない人生

 

 甘栗の皮が上手に剥けない。爪で横に割れ目を入れ、それを広げるように両脇から力を加えパカッと開くのが定跡なのだが、開いた皮に実がくっついてしまっていたりする。鬼皮を外すのはさほど難しくないが、一緒に渋皮までするりと自然に剥けていてくれる、というわけにはいかない。一気に難儀な食べ物になってしまう。

 皮剥きの技量の問題ではなく、単に買った甘栗がそういうものだったという可能性もある。でも、どうしても自分は下手だからこうなんだという意識がぬぐえない。そういうふうに生きてきたからだと思う。逆上がりできないのも、スーパーマリオブラザーズがクリアできないのも、クロールの息継ぎで水を飲んでしまうのも、すべて自分の中ではつながっている。そうやってすくすくと無力感を育ててきた。

 食べ切ってから気づいたが、包装紙に甘栗の皮の剥き方が書いてあって、それによるとなんと栗のふくらんだ側に割れ目を入れるということなのだった。ずっと栗の平たい側に爪を入れていた。だって、入れやすい。そういうもんじゃないのか。そのためにあの形状になってきたんじゃないかぐらいの人間中心主義的な錯覚まであった。

 じゃあとにかくそうやれば上手く剥けるかな。しかし栗は食べ切ってしまってもうない。量の割にそこそこの値段になるからなかなか買うものでもない。正直に言うなら、この栗だって珍しく人に会う用事があってお遣い物に持っていったのを、おもたせとしていただいているだけなのだ。タイミング。こういうものだ。甘栗の皮が剥けないというセルフイメージは更新されない。

 次に食べるときまで覚えていられるだろうか。次に食べるときがくるのだろうか。すくった手からこぼれ落ちていく砂が機会と記憶なのか。