日記/彼岸花もしおれる日々

 

九月某日/

 白川沿いの道を歩く。この前まで紅と白の彼岸花がきれいに咲いていると思ったらもう枯れている。枯れた彼岸花はなんとも物悲しい。頭皮が透けるざんばら髪の山姥か、野に晒された九相図の小野小町といった様相である。葉のない茎がやけにすっと立って伸びているから、余計にみすぼらしく感じる。

 しかしこういう姿まで含めて彼岸花の美しさなのだろう。とくべつな花だ。

 

九月某日/

 図書館で村田喜代子『鍋の中』と『屋根屋』を続けて読む。前者は(たしか)著者初の単行本、後者は(たぶん)最新作。『屋根屋』の中で主人公の祖母が念仏を唱えていた風景がイメージとして出てくるシーンがあり、それと同じ風景が『鍋の中』(表題作「鍋の中」)の中でも描かれていた。二編に直接の関連があるわけではないだろうけど、これは著者自身の記憶とか原風景みたいなものなのかもしれないな、と勝手に思う。

 同じく村田喜代子の『光線』と津村記久子の新作『エヴリシング・フロウズ』を借りて帰る。後者は予約していたやつ。

 帰りに近所のなじみのおもち屋さんで栗餅を買っていこうと思っていたが臨時休業だった。図書館の帰りに川沿いを歩きながらこのおもち屋さんで何か甘いものを買って帰る、というのはお気に入りのルーティーンである(ルーティーンというほど頻繁にやっているわけではないけれど)。ここの栗餅はまるっと柔らかなもちの中にごろんと栗がまるごと入っていて本当においしい。

 

十月某日/

 スーパーに『食パンダッシュやまだちゃん』の十月号あるかなと思って行ったらなかった。アイカツ!食玩的なやつ(缶バッジワッペン)が新発売ということであるかと思ったけどそれもなかった。

 生活圏内のコンビニ&スーパーにはまったくアイカツ! 関連商品が置いてない。子供いないのか。いないんだろうな。居住している区は京都市で最も高齢者人口が多い区だそうです。京都駅らへんとか洛北とか行くとありそう。

 買うつもりがあるかどうかは自分でもわからないんだけど、とにかく一度ちゃんと売っている風景を見てみたい。そういう風景を見ることでちゃんと人気なんだと実感できるというか、自分だけが見ている幻ではないということがわかるというか。もっと飛躍すると、自分の応援していたスポーツ選手が賞をとったみたいな嬉しさすら感じる気がする。いやこれは筆が滑ってる感じするな。ホントか?

 

十月某日/

アイカツ!』の感想ばかりえんえんTwitterに連投してしまうの、わりと迷惑なんじゃないかとたまに思う。でもじゃあ他に何をpostするかというと、それ以外もろくなこと言ってないから結局は大差ないんじゃないかという結論に達する。

 Twitter、ほとんど脳とコンピュータを結線して思考を垂れ流してるみたいな感じで使っている。神経接続。セルフオーバーテクノロジーだ。だから先生あのねとかお母さんあのね的な感じでだらだらつぶやいてしまう。インターネットに情報デブリが増える。

 検索ノイズになるんだったらアレだけど、Twitterのpostくらいだったら影響少ないだろうし、そもそもすべてをクロールしてアーカイブするというインターネットさんてだいぶパラノイアだと思うし。目についてしんどいなあと思ったらフォロー外してもらえば済む。Twitterはべつにコミュニケーションツールではないと思ってるし、Twitterとかそういうのに大仰な使命だの役割だのもたせるのしんどいと思ってもいるので、気軽にフォローだのリムーブだのしたらいいと思う。

 べつに伝えたいことなんて何もないしわかりあいたいことなんてほとんど何もないし。いやそれは言い過ぎか。でもうそじゃない気はするし。どっちでもいいです。