猫は箱の外でも死ぬ

 

 今の土地に引っ越してきてだいぶ長い。今ではだいぶなじんだような、いまだになじんでいないような。そんなん言ったらそもそも地元になじんでいたのかという話にもなる。そもそも地元という単語もなんかなじみの薄い言葉だ。地元というか、とにかく生まれ育った土地。どこへ行ってもよそ者だとかそういう話はいい。ノマドとかディアスポラとかそういう話でもないし。

 とにかく、ここに来てそれなりの年月が経った。十年にはならないけど、近い。

 

 近所に猫の人が住んでいる。猫の人というのはつまり猫だ。三毛である。三毛だから雌だろう。

 猫の人の人というのは人格だ。風景としての猫ではなく、その猫として認識している。個体識別している。だから猫ではなく猫の人だ。あるいは猫であり猫の人であるとも言える。こういう説明は完全に蛇足でみっともないけど、みっともない人生送ってきたししかたない。

 この土地に引っ越してきたころから彼女はそこにいた。石畳のその道を歩くと、いつもではないけれどたまに眠そうに佇んでいる。だいぶ人に馴れている。

 向こうにとっては有象無象だろうけどこちらにとっては多少違うから、手を振ってみたりする。反応はないけど別にそれでいい。返されてもかえって困惑してしまう。こちらの気が向いてあちらも気が向いたら撫でさせてもらうこともある。慣れたもので、嫌がることなく触れさせてくれる。ビリケンさんの足みたいなものだ。

 特に話しかけたりはしない。言葉が通じないので。心が触れ合ったりもしない。べつに話したいとも思わない。話題がないし。話すの苦手なんだ。人間と話すのは苦手だけど動物はいいとかそういう話ではないです。その猫の人、美人で毛並みが柔らかいから。五割くらいはカラダ目当て。

 

 猫はいつか死ぬ。そんなん人間だってそうだ。でも猫のそれは人間よりちょっと早い。

 この土地に来たときからいた彼女は、自分にとっては猫の人であると同時に土地の記憶でもある。そういう意味ではやっぱり風景として認識していたのかもしれない。いや重要なのは人格や風景とかではなく、認識しているという事実のほうだろう。それはまあいい。

 自分がこの土地を離れるのと彼女が死ぬのと、どちらが早いのかはわからない。

 とりあえず当面、この土地を離れる予定はない。とはいえ土地を離れない予定もないのであって、そもそも未来とか計画とか予定という概念が薄いからどちらとも言えない。昨日と今日と明日しかない。

 もし彼女が死んでいなくなったあとも自分がここに住み続け、彼女のいた道を通り続けるなら、もう二度と彼女の姿を見ることはないし、彼女がいる風景を見ることはない。猫の人と認識してしまったからそうなる。認識したからこそ同じ風景に違いを見つけてしまう。

 それは知らない世界だ。それまでとは違う世界。失われたものは戻らない。

 

 自分は桜の木だとか金木犀だとかを信頼している。季節が過ぎ去ってもまた次の年に咲いてくれるという信頼だ。それだって本当は何かの拍子に失われてしまうのだけれど、でもなんとなく永遠に近いものとして認識しているし、自分の存在とは無縁に循環するそれを、無縁だからこそ信頼している。

 あの猫の人は循環する時を生きる存在ではない。人間の人と同じ、直線としての時を生きる存在として認識せざるを得ない。猫の人はいなくなる。いつかではなく、いずれ。

 まあ当たり前なんだけど、でもそのことにびっくりする。そうなのかー。そうなんだよ。猫と思っていればあるいは循環の時つまりは永遠の存在として思えたものを、猫の人だからもうその輪からは外れる。結局は自分の認識の中の話なんだけど、とにかく。

 だからどうというわけではなくて、でも死んじゃうんですよ、猫の人は。まあこっちが先に死んじゃう可能性だって十分あるんだけど。あるいは猫の人が死ぬ前にこの土地を離れたら死なない。死を知らなければ死なない。その場合は猫の人は永遠の存在になりうるのかな。少なくとも確認しない限りは。

 

 猫じゃなくたって同じなんですけど、でも違うんよ。同じだなんてしょうもないことを言うな。普遍的なーとか法則ーとか世界の理ーとかの話じゃなくて、自分とその猫の人の話がしたかったんです。話がしたかったわけじゃないか。話がしたいんじゃない。話すの苦手なんだ。とにかく、そんなことを考えた。考えたことを覚えておきたかった。散漫。

 あっという間にまた冬が来る。猫の人はまだ生きている。