日記/季節はめぐる・見ているだけでうっとりと・木槿・死を待つまでもない

 

9月某日/

 雨が続く。まさに秋の長雨だ。月が変わった途端に残暑などどこ吹く風という感じ。

 今年は盛夏に張り切りすぎて、残暑にまで余力がまわらないのだろうか。でも去年もこんな感じだった気がする。

 子供のころは9月というと秋というイメージで、それは夏休みの終わりにも関係していたのだろうけど、でも近年は9月になってもずるずると暑いままと感じていた。ところがこの2、3年はすぱっと涼しくなってしまう。もちろん多少蒸す日はあるけれど、30℃になる日はほとんどない。

「子供のころ」というのはくせものだ。実際に十年二十年で気候が変動していたり、あるいは単に自分の認識の問題だったり、大人になるまでいろいろ移り住んだその地域差によるものだったりと、違いがあるのか、あるとすればそれがどこからくるものなのかがいまいちはっきりとしない。

 季節はめぐるものであり、変わってもまた一年後には再び訪れる、すべては循環するものだと思っている。それは正しいのだけれど、一方で今と同じ秋がやってくることなどない。毎年やってくる秋はそれぞれ別の秋だ。

 でも、自分にはそのそれぞれに異なる秋を別物と認識することができない。正確にはする気がないだけなのかもしれないけど、でもできないのとしないのにどれほどの違いがあるのだろう。

 めぐりめぐる中ですべてがすり減って消えていく、流れていく。

 

9月某日/

 メープルシロップをもらったのでバニラアイスにかけて食べている。甘いものにさらに甘いものをかけて、と思われるかもしれないけど、甘さよりむしろ香りと風味に肝要がある食べ方だ。つまり、おいしい。同様に黒蜜をかけてもいい。

 バニラアイスをひと工夫して食べるのが好きだ。黒すりゴマや細かく切ったバナナ、砕いたナッツなどを混ぜたり、きなこをかけたり、簡単なアレンジを加えて食べるのが楽しい。

 思えば混ぜごはんなどにしても、とにかく具がいろいろ混ざったりしているのがなんだか豪華に思えて好きなのだ。心がうきうきする。見ているだけでうっとりと幸せな気持ちになる。世界の幸福の総量が増える。

 

9月某日/

 彼岸花木槿が咲いているのを見かけるようになった。

 木槿の花はひらりと頼りなく儚くすら見えるのだけれど、同時におおらかで広がりがある。わりと大ぶりで白やピンクのそれは目立つのに軽く、視界の中にふわりと座る。宗旦木槿などのように白地の中心にさっと赤が入るのが鮮やかで清々しい。

 生来の怠惰さが災いするのか、花の見分けが苦手で、例によって木槿もいまいち芙蓉と区別できていなかった。とりあえず葉で見分けるというのを覚えてからは一応判別できている。というか、ここのこれは木槿であるというふうに決めてかかっている。

 ここのこれ、というやつは毎年同じ季節に同じ場所で咲いてくれる。だから今年も木槿が咲き出した、と言える。時季が終わる頃には、去っていく人を見送るようでとてもさびしい。花そのものも好きだけど、自分の生活圏内にあるその風景が愛おしい。

 

9月某日/

 スイスイってやるおでんわに変わったので、リズムゲームなどをダウンロードしてぽちぽちとプレイしている。

 自分はゲームが下手で、ファミコンスーパーマリオブラザーズなんかも子供の頃から今に至るまで一度もクリアできていない。とろくさいのだ。たまに思い出したように挑戦してもできない(GBAファミコンミニでやる)。あまりにできないので無力感にうちのめされてたまに泣く。枕を叩いたりもする。

 とはいえそれはまだいい。小学生のころは大縄跳びやドッジボールが苦手だった。嫌いというより、恐ろしかった。それ自体のつらさよりも、しくじって全体に迷惑をかけるのがたまらなく嫌だった。とろくさいから失敗する。ため息が聞こえる。それがくりかえされる。この世の地獄だ。何も死を待つまでもない。ここにある。

 ゲームは自分ができないだけだからいい。チーム型のマルチプレイなどでない限り、失敗も成功も誰はばかることがない。

 だからランキングやその報酬などもあまり気にせず、ほそぼそぺたぺたリズムゲームをやるのは楽しい。身の丈にあった「難易度:やさしい」で遊んで笑っていられる。やめるのもはじめるのも自分で決められる。自分で決める。