ほむらちゃんは思春期

 

※劇場版新編ネタバレ有

 

 

 

クレイジーサイコレズとか呼ばれるように至った暁美ほむらちゃんはドヤ顔で『愛よ』とか言い出す前にまず恋からはじめたらよかったのに。

 

ひとつのことしか見えなくて、どうしようもなく視野が狭くて、一瞬が人生のすべてになる時期、思春期。

そんな年齢のときにふつうの人間はまず巡り合わないスケールの問題と力に出会ってしまったのが暁美ほむらの不幸だった。

 

暁美ほむらの魔女は思春期の心象風景をあらわす記号に満ちている。

上半分のない顔は他者への劣等感、骨があらわになった身体は摂食障害や性的成熟の否定、昔の自分の姿をした尖兵は歪んだ自己愛、傷だらけの腕に導かれ向かうギロチン台や彼岸花は自傷と死への憧憬。

暁美ほむらの行動は思春期の少女らしい心理にもとづいたものばかりだ。

ことあるごとに時を止めて自分だけの世界に逃げこむ、大好きな相手には近寄れないくせにさりげなくいいところを見せて反応をうかがう、自分ひとりでする類のことには異常にしつこいくせにコミュニケーションに関しては驚くほどあきらめがいい。

 

気弱で自分に自信がないのがまるわかりだった三つ編みメガネのころも、クールでミステリアスな転校生のときも、魔女になりかけて破滅へと向かうときも。そして、自分の欲望に素直になったように見せておきながらその実すべてあきらめ形だけの潔さにすがって露悪的にふるまう悪魔の姿においても。

どうしようもなく暁美ほむらは思春期なのだった。

 

個人や日常のレベルの小さなことをすぐ拡大させて考えてしまうのも思春期にありがちな癖だ。

仲良くしたいなという小さな好意を一足飛びに深い永遠の愛にまで持って行ってしまう。

普通の少女なら愛と錯覚しただけで済むけれど、暁美ほむらの場合はその気持ちを強化するできごとに満ち満ちていた。

 

「愛よ」とか言い出す前に恋からはじめるべきだったのだと思う。

大切な友達でもたったひとつ残った最後の道しるべでも信仰や保護の対象でもなく、恋心を抱いた「好きな人」と認識してしまえればもっと楽だったのかもしれない。

恋をすっ飛ばして愛に行き着いてしまったからこそ、あんなことになってしまったのだと思う。

恋心を育んで愛に変えていけば、べつの結末があったかもしれないのに。

でも(おそらく暁美ほむらの言い分においては)状況がそれを許さなかったし、そもそも「あったかもしれない」というのは「ない」ということなのである。

 

美樹さやかは対照的だ。

上条恭介への恋慕は他人から見ればあからさまだったけど、彼女の中ではまだ淡いもので、幼馴染への思慕や彼の才能への愛惜と区別がつかないものだった。

そうして恋に正面から向き合えないでいるうちに歯車は狂っていく。佐倉杏子につつかれながらも自分のありたい姿との矛盾に苦しみ、恋敵の登場に尻込みして魔法少女の身体ではダメだという言い訳をつけて恋から逃げ出し、その結果として自分をダメにしてしまった。

恋に対する自覚の差はあれど、恋に向き合えないために破滅へと向かったという点は暁美ほむらと似ている。

けれど、新編での彼女は違う。

新編での美樹さやかは上条恭介への未練を見せない。TVシリーズでの最後で円環の理に導かれるままに上条恭介の演奏を見て、自分の気持ちに区切りをつけた。彼女の中で上条恭介への恋は完結したのだ。きちんと恋を終わらせた美樹さやかはもう迷わない。

「また恭介と仁美におはようと言えるのが嬉しい」という台詞は、恋を終わらせて自分の大切な友人たちに向き合い直した彼女だからこそ言える言葉だ。

恋をはじめてすらいない暁美ほむらとは違う。

 

暁美ほむらはそもそもレズビアンなのか? とか、暁美ほむらのあの思いを恋に類するものとしてしまっていいのか? というのは真っ当な疑問にも思えるが、むしろあれを恋にしてしまえなかったことこそが暁美ほむらの悲劇なのだろう。

 

個人的には思いに名前をつけてラベルごとに分類するのは大して意味のない行為だと思うけれど、一方で名前をつけるというのは整理するということであり、整理するということは認識するということなのである。明確な認識は思考のノイズを取り除き、シンプルに迷いのない行動を生み出す。ただひとつの正解であるかどうかはわからないけれど、ひとつの選択肢ではある。

 

(以上、ただ「暁美ほむらは『愛よ』とか言い出す前に恋からはじめろよ」と頭に浮かんだフレーズを言いたいだけのためにいろいろ長ったらしくこじつけた文章)