日記/小豆すきすき・春の範疇・奇妙な例え・自分のごはん

 

5月某日/

 柏餅はおいしいねえおいしいねえ。柏葉の香りの清涼さがいい。味噌餡の柏餅などまた味わいがあっておいしい。のたりとした上新粉の餅の感触に味噌餡の風味が合う。

 柏餅の次は若鮎(カステラ生地に求肥のやつ)や麸まんじゅう、水無月の季節だ。わらび餅や水ようかんもおいしくなってくる。小豆すきすき。粉と甘い豆がなんでこんなにおいしいのかよ。

 

5月某日/

 もはや真夏のような暑さ。たしか去年もこうだった。まだ初夏未満だぞ、春の範疇だぞ、と思っていた。30℃をゆうに超える、脳天気なまでの快晴。そんなに暑くなってお前になんの得がある。

 しかし梅雨が来て雨が降りだすと急に肌寒くなる。ようやく暑さにも慣れ、いや慣れはあんましない、ともかく気持ちの切り替えというか、よし日々は暑いものなのだなという態勢が整ったころにやってくるのがこの梅雨。裏切りだ。

 そうしてなんやかんや振り回されているうちにちゃんとした夏がやってくる。

 そういえば今年はいまいちタイミングが合わなくてまだ蛍を見てない。例年は夜コンビニへ向こう途中に小川沿いの道を通りつつ見ているのだけれど。春だーってぽやーっとしてるとあっというまに蛍の季節が過ぎ去ってしまう。どこかへ行ってしまう。同じ時空にいるのに違う時を生きているようだ。蛍、蛍よ。お前たちは人間ではない。

 

6月某日/

 皐月の花が咲いている。京都府立図書館の地下1階閲覧室から見える段々の皐月は壮観である。頭の高さをはるかに越え、視界いっぱいが濃いピンクに染まる。この時季だけの特別な風景。

 皐月の次は紫陽花の季節がやってくる。紫陽花は本当に細工物のようで見ていておもしろい。細工物のようで、というのは奇妙な例えだ(細工物の多くは自然の模倣だし、本来なら逆のはずだ)けれど、あの鮮やかで細々とした装飾的な姿についそう思ってしまう。もっとも、今よく見るアジサイの姿も園芸の分野でより美しくと改良されたものなのかもしれない。よう知らんけど。

 自分ではあんまりちゃんと育てないけれど、花を眺めるのは好きだから、世にきちんと手間をかけて花を育てている人がいることがありがたい。

 

6月某日/

 ニラレバ炒めを作って食べた。大量のニラを使うと心が躍る。半束ほど使ってもぺろりと食べられてしまう。大量のものを消費することそれ自体の快楽というのはある。

 なんだかひとり暮らし一年目で自炊を始めた大学生みたいなことを言うようだけれど、お店に出てくるようなものを作れると単純に嬉しい。これおうちでできるのー、みたいな言い方もある。こういうのは再現することそのものの楽しさがある気がする。特定のお店の味とかでなくても、いわゆるニラレバの理想像との一致。精巧な写生や模型ができたときのような満足感。

 いやどうかなー、今のは下手な例えだったような。そういう話だったかなー。うそくさいぞ。単にニラレバ作ったらめっちゃおいしかったです、いいでしょ、っていうだけの気持ちになんかそれっぽい理屈つけただけなんじゃなかろうか。

 ごはんがきれいに上手に作れると嬉しいよね、という話。おいしいともっと嬉しい。だからといってここをこうこだわって、とかはめんどくさいし疲れてやらなくなるので、今日はよく晴れたなとかそういう天に任せるぐらいの感覚で今回いいじゃんいい感じじゃん、という受け入れ態勢でいたい。

 なんにしても、ひとりで自分のごはん作るのは気楽でよい。

 

日記/重力の強い星・春のパンまつり・矢車菊・夢見ることを自分に許す

 

4月某日/

 裏のお山に登ったら頂上の広場的なところで猫に遭遇した。かまってウザがられたりするのが嫌なので離れたところに座ったのだけど、どうも人に馴れているようで近くに寄ってくる。あまつさえ足に擦り寄ってきたりするのですっかり困惑してしまった。

 自分は金目のものも食べ目のものも持ってないのに。やめてほしい。気まぐれにそう愛想を振り向かれるとおろおろしてしまう。

 べたついたところのある人間だから一期一会と割り切れず、次またここに登ったときに目で探してしまうかもしれない。

 重力の強い星はおそろしい。自分は砂鉄のように無力である。

 

4月某日/

 今年こそはと思ってヤマザキ春のパンまつりに参加していたんだけど、今の調子だと25ポイント貯められずに期間終了してしまいそう。かなしい。

 週1くらいで0.5ポイントの食パン(6枚切り)を買うほか、たまにあんパンとか菓子パンを買うくらいで、なかなか貯まらんことよ。お皿ほしかったのに。

 パン好きなんだけど、だからこそスーパー・コンビニパンだけでも神戸屋とかPascoとかいろいろ会社あるし、ヤマザキだけに忠誠を誓うというわけにはなかなかいかない。そもそも貧乏でケチだからあんパン買うにもだいぶ悩んでなかなか数買わない。

 べつにお皿くらいふつうに買えばいいんですけど。なんていうか。こう。ウォウ~。

 

4月某日/

 いただきもののレディグレイを飲むのが幸福。

 オレンジピールや矢車菊の花びらが混ざった茶葉の山にさくっとティースプーンを差し入れるその瞬間がなんとも言えず嬉しい。香りを楽しむのも飲むのも嬉しいけど、いれるその過程もまたうきうきしてしまう。

 矢車菊の青が楚々として可憐で、見ているとふわああってなるんですよ。もうちょっと興奮するとふおおおっともなる。

 

5月某日/

 マーガレット・アトウッド岸本佐知子訳『ダンシング・ガールズ』(白水社、1989)を読んだ。よかった。表題作は池澤夏樹編の世界文学全集の短編のやつにも収録されてると思います。

 その「ダンシングガールズ」、物語ラストの”あらかじめ失われ”た楽園を”夢見ることを自分に許す”(p.207)部分がとても切ない。現実はグロテスクだけど、ここよりほかに人が生きる場所なんてない(だからこそ現実なんだ)、というこの世のかなしさよ。

 おもしろかったので次は『侍女の物語』を読もうと思う。カナダ作家にはまりつつある。

 

日記/うまくやれない・あずかり知らぬ・のどけからまし・卵のように

 

3月某日/

 入江喜和『たそがれたかこ』1巻読んでると、いい漫画だと思いつつもつらい。

 主人公のたかこさんは要領が悪くて人付き合いが苦手で、学生時代も何も楽しい思い出がなかったというタイプ。攻撃的だったりエキセントリックだったりするわけでもない大人しい人だけど、どうにも人とうまく接することができない。地味で抑揚のない、べたりとまとわりつくような重みの生きづらさを抱えて生きている。

 自分はこういうキャラクターに共感を覚えるんだけど、でもふと実際にこういう人がいたら自分は仲良くやれるのかと考えると、たぶんうまくやれないと思う。俯瞰して見れば気持ちがわかるように思うけどその場では相手が何をしたいのか何を考えているのかさっぱりわからなくて、会話が続かなくて。もしかしたら苛立ったり、わずらわしく思ったりさえするかもしれない。それはきっと向こうからこちらを見ても同じだろう。

 ある個人が生きづらいということはそれだけで十分に悲劇だ。でもそれ以上に、互いに境遇を理解できるはずの二人が、他の人から見たらなんであの人ああなのって思われるようなことをうんうんわかるよって思えるはずの二人が、わかるはずなのに互いにうまくやれない、わかるのにわかってあげられない。そのことが何よりも不幸で恐ろしく、絶望的だと思う。こんな悲しいことが許されていいのかよ、と思ってしまう。

 はー人間てたいへんだ。ウォウ~。結局また自分の話かよーという感じですね、すみません。

 ちなみにここで挙げた部分はどちらかと言うと導入で、1巻後半から若いミュージシャンにハマって、2巻以降はイメチェンしたり遅い反抗期を迎えたりするそうです。

 

4月某日/

 春が来てしまったよ。あっという間だ。まだまだ寒いですね~とか思ってるのに知らぬ間に花を咲かせてしまう。当たり前のことなのに少しだけ裏切られた気持ちになる。待っていたはずなのに置いていかれたような。すべてあずかり知らぬところで。

 実家から送られてきた山うどを食べる。梅とかで和えてもおいしそうだけどもっぱら火を通して食べている。山菜パスタにしたり、鯖の水煮缶と煮たり。香りが良くておいしいので、皮まできんぴらにして食べる。春のいいところだ。香りの季節。

 

4月某日/

 近頃は眠りが浅くてまいっている。春眠暁を覚えずのはずが。鳥の声はあまり聴こえない。

 花開く陽気かと思えば週を通して雨が続く。せっかく咲いた桜も見る間もなく散ってしまっているかもしれない。ぱらぱらと落ちた椿も目につく。そこまでまるきり春曉しなくてもいいのに。

 桜よりも椿や梅のほうが好きと思っていたけれど、この時季は気づくと桜のことを考えている。もう咲いてしまっただろうか、散ってしまっていないだろうか。わくわくよりもそわそわ落ち着かない気持ちのほうが多い。失われることばかり考えている。世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし。久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ。ことならば咲かずやはあらぬ桜花見る我さへにしづ心なし。みんな落ち着かないでいる。

 

4月某日/

 ケニア北東州ガリッサの大学襲撃のニュースつらい。ガリッサは北東州の州都で、州の中では西端、ケニア中心部ナイロビ方向への玄関口に当たる。ソマリの人たちが多く、見た目もナイロビのほうの人たちと比べるとけっこう違う。細長く中東っぽい顔立ち。住人のほとんどがムスリム。でも襲撃したアル・シャバーブの人たちはキリスト教徒を攻撃したとかそんな感じのことを言っているそうです。このあたりは前はソマリアに近いとはいえ国境付近に比べればまだ大丈夫とか言われていたけど、2011年のケニア軍ソマリア侵攻あたりからきな臭くなってきて、2年くらい前にも爆発事件があった。知らん。もういい。この話はやめよう。

 インターネットやってると否が応でもしんどいニュースが目に入る。でもべつにネット関係なくそういうものかも。人と関わることが社会で生きるということならば。ちがうな、そういうこと言いたいんじゃない気がする。

 震災のときも、ニュースを見ると具合が悪くなった。目をそらしてはいけないとか忘れてはいけないというのはきっと正しいと思うんだけど、その正しさに適応できず落伍してきた結果が今の自分なので。みんなが覚えておいてくれ。自分はそれ以外にも忘れたいことでいっぱいなんだ。

 ちいさな喜びを卵のように抱えて呼吸していたい。桜餅を食べて、草大福を頬張って、いちご大福に舌鼓を打ち、ぼたもちでお腹いっぱいになろう。