豊家の落日/幸を拾う (掌編)

 

慶長二十年(一六一五年) 二月  大坂夏の陣開戦二ヶ月前

 

 まったく迷惑な話だ、と思いかけて、いや迷惑がっているのは兄の方だろうと思い直し、真田左衛門佐幸村の顔に笑みがこぼれた。

 九度山蟄居中さんざん援助してもらった兄信之に向かって迷惑とは、あまりといえばあまりだ。なにしろ金子どころか壺をふたつ送り付けて「焼酎を入れて送り返せ」と頼みまでしたのだ。律義者の兄はしっかり壺いっぱいに焼酎を入れてくれた。いいご身分だな、と自分で思った。

 その恩を仇で返すように、いま自分は公然と徳川に叛旗を翻している(もっとも、叛旗も何も自分としては徳川に従ったことなど一度もないつもりなのだが)。兄はさぞ頭を痛めていることだろう。しかし、柳眉と形容するにふさわしい兄の整った眉が煩悶でげじげじのように歪められるのを想像すると、ますます笑ってしまう。


 とにかく、いま大坂城で最も疑われている人物と言えば自分だった。

 真田左衛門佐は関東方に内通している、そんな噂がまことしやかに囁かれている。兄は徳川の重臣本多忠勝の娘(形式上、徳川家康の養女でもある)を嫁にもらい、徳川への忠誠を示すために信幸の幸を之に改めて信之と名乗りすらしている。幸の一字を捨てることによって、現将軍徳川秀忠をさんざんに痛めつけた父昌幸への決別を示したのだ。そんな「徳川の忠臣」を兄に持つ自分が疑われるのは、当然といえば当然だった。

 事実、徳川方は自分へ内応の使者を送ってきていた。叔父の信尹からの書状によれば、徳川は自分に信濃十万石を用意しているという。十万石といえば兄の九万五千石を超える大盤振る舞いだ。関ヶ原の役の頃に父が有していたのが信濃上田三万八千石。なんともぼろい儲け話だった。


 しかし、もちろん幸村に内通する気はなかった。さらさらない、と言っていい。

 関ヶ原の役において自分と父は上田城で嫌というほど秀忠の軍勢を叩いてやった。戦とはこれほどたやすいものかと思いさえした。その結果、秀忠は天下分け目の合戦への遅参という形で面目を失い、一時は徳川の後継の座を失うかというところにまで追い込まれたのだ。

 あの男が自分を許すわけがない。秀忠の顔色をうかがいながら、決して許されない過去を抱えて冷や汗を拭いつつ生きるのはごめんだった。

 そしてなにより、ここで寝返ったら自分は自ら活躍の場をふいにすることになる。


 幸村は自分を天才だと思っていた。彼の中でこれは厳然たる事実だった。

 秀吉に表裏比興の者と称された策士である父を超えるのは自分しかいない。それどころか、この天下で自分ほど戦の巧い人間は古今存在しなかったのではないかと思う。海道一の弓取りだとか小牧長久手で太閤を打ち破っただとか、その程度の戦自慢は片腹痛いというほかない。そこに真田幸村がいなかったからできただけのことではないか。

 そんな天才が十年以上も九度山で無聊をかこつことになっていた。これを損失と言わずして何というのか。

 同じようにきらめくばかりの才を持つ父はあの静かな田舎屋敷で死んでいった。いまここに才を発揮する場を与えられた自分が、どうしてそれを手放すと思うのか。本気で自分が内応すると思っているのだったら、家康は戦ぎらいなのだとしか思えない。

 そんなわけがない。生涯を戦ばかりで過ごしてきたあの老人が戦ぎらいなわけがない。今川の領地を食い破り、姉川で浅井朝倉を蹂躙し、武田に追い詰められ、太閤と睨み合ったあの男が、戦場で己を誇示する喜びを知らぬわけがなかった。


 誘いは再び来た。が、「ならば信濃一国を与えよう」と再度送られてきた書状を、幸村は「十万石では揺らがぬ忠義が一国ならば不忠になるとお思いか」と叩き返してやった。

 大嘘もいいところだった。関ヶ原の頃ならいざ知らず、今となっては豊臣への忠義などかけらもない。ただ十年あまりくすぶりつづけたこの沸き立つ才を爆発させてやる場が欲しいだけだった。

 たとえ天下をくれてやると言われても、自分がこの乱から手を引くかどうかは怪しかった。


 自分に大坂への異心がないということを示すために、名前まで変えた。信繁という名を、兄の捨てた幸を取って幸村としたのだ。

 兄の捨てた父と真田を自分が拾ってやるというつもりだった。手に取るとそれは不思議と馴染んだ。なぜ今まで自分のもとになかったのか、と思うくらいだった。

 この城で高らかに真田の名を掲げるつもりの自分が疑われるのは、とにかく迷惑な話だった。忠義心はともかく、こと関東方と戦うことに関して自分以上の情熱を持つ人間は他にいないだろうに。

 外堀、二の丸、三の丸が破却されまさに裸の城となった大坂城、猜疑と不安とやけっぱちな勇ましさに満ちたこの城塞の中で、幸村は幸せだった。落ち窪んだ目でこの世の終わりとばかりため息をつく同輩たちに比べ、自分ばかり幸せでいいのだろうか、などと柄にもなく思ったりもしたが、まあ稀代の名将の戦いぶりをその目で見られるのだから、それだけでおすそ分けとしては充分だろう、と考えることにした。厚かましいとは、思わなかった。

 

 

 幸村の名に関するくだりは当然ながらフィクションです。真田左衛門佐の諱は信繁で、また父昌幸の死後は出家して好白と号していますが、幸村と名乗った事実はないそうです。

 しかし幸村という名は一六七二年(信繁の死後わずか五十七年後)には登場し、後世においては兄信之の家系である松代藩の系図にも幸村と記され「名は信繁で幸村は大坂城入城後に名乗ったもの」とまでされたといいます。この話ではそういったエピソードをふまえ、幸村という言いがたい魅力を持った名を採用しました。