映画『思い出のマーニー』感想/それは誰の物語

 

 ■ 見た

思い出のマーニー』は映画館で流れた予告編を見て知った。『たまこラブストーリー』か『アナと雪の女王』か、どちらかを見に行った時だと思う。月の輝く夜の水面に浮くボートと二人の少女が美しかった。

 ジブリ映画を楽しみにするという経験はあまりなかったけど、予告編が強く印象に残っていたから公開が近づくにつれそわそわし始める。図書館で原作を借りて読んだ。岩波少年文庫で上下巻(ジョーン・ロビンソン/松野正子訳『思い出のマーニー』上下、岩波少年文庫、1980年)。最初の数ページで好きになった。訳者のあとがきには冒頭部がとっつきにくいのではと書かれていたが、その冒頭部が微細な心の動きを精緻に綴っていて素晴らしかった(もちろん、それは冒頭部だけに留まらない)。

 公開日の翌日のレイトショーを見に行った。良かった。でももっと良くできたかもとも思った。もやもやした部分もあった。しかしながら良かったのは良かった。見終わって数日折にふれて考えているうちに気持ちが膨らんできて、もう一回見たらもっと楽しめるのではという気持ちになりもした。

 

 以下に感想というか見終わって考えたことを書いたのだけれど、いちいち原作がどうのとうるさい感じになっていると思う。すみません。そういうのあんまり気持ちいいもんじゃないしよくないなあと思うんだけど、そんなふうになってしまった。

 でも素直にすてきだなと思うシーンもいっぱいあったので、映画を見たその記憶をとどめておきたくて書いておく。記憶によるものなので一部不正確な記述もあるかもしれない。

 

 

以下、ネタバレ注意

 

 

杏奈の物語

 映画『思い出のマーニー』は杏奈の物語だった。そんなん原作だってそうだ。しかしあえて言うなら映画は杏奈の物語であり、原作はアンナとマーニーの物語だった。

 確認しておこう。この作品はアニメ映画化するにあたっていくつかの改変が加えられている。大枠でいえば次の二点。

舞台が日本になっており、主要人物も日本人に変更されている(マーニーはそのまま、主人公アンナは杏奈に)

原作がアンナ&マーニーパートとアンナ&リンゼー家の人々パートに分けられるのに対し、映画はそのふたつをクロスさせる形で構成している。リンゼー家の人々の多くはオミットされ、プリシラにあたる人物が映画では彩香になる

 上記の二点の変更点を除けば、ストーリーもセリフも、かなり原作に忠実である。しかし、微細な部分での変更点はもちろん他にも存在する。その微細な変更点が、この映画を「アンナとマーニーの物語」ではなく「杏奈の物語」にしている。

 

杏奈の前にマーニーが「現れた」

 杏奈は初めて出会ったマーニーに「あなた本当の人間!? 私の夢の中に出てきた子にそっくり……」と問う。北海道の田舎にはそぐわない、おとぎ話の人物のような雰囲気のマーニー。会う前から互いの存在を意識していた二人は惹かれ合い、互いの存在を秘密にすることを誓う。

 マーニーとのシーンはどこかこちら側の世界とは違う世界であるかのように描かれる。ふだんは人気のないさびれた屋敷が豪華な別荘になる。ときには霧のかかったあからさまに不思議な空間として描かれさえする。

 実はこの問いは、原作では少し異なっている。同じようにマーニーと出会ったアンナはマーニーを見て「これは夢だ」と思い、「あたし、この人のことを、空想しているだけなんだわ」と考えて「ゆうれいでも見ているように、穴のあくほど女の子を見つめ」る。ここまでは映画も同じようなものだが、原作ではこれに「女の子のほうも、同じように、アンナをじっと見ていました」と続く。そしてようやく「あなた、ほんとの人間?」と聞いたアンナに、マーニーは「ええ。あなたも?」と返す。このあと二人は体を触り合い、お互いが実体を持った生身の人間であることを確かめ合う。アンナはマーニーの体温を感じて「生きている、本当の人間」だと思い、「女の子のほうでも、アンナがたしかに生きている、ほんとうの人間だとなっとく」する。

 映画では杏奈の前に不思議な女の子マーニーが現れたシーンとして描かれるが、原作ではアンナが不思議な女の子マーニーに出会ったとともにマーニーが不思議な女の子アンナに出会ったシーンでもあるのだ。

 

 この違いは二度目の邂逅でより色濃く描かれる。

 二人がボートに乗って、夕日の沈む水面を渡っていくシーン。ボートを漕ぐマーニーを正面から映すカットがある。この画はそのまま杏奈の視線だ。夢の中に出てきたような、不思議な女の子を見つめる目。なぜかわからないけれど強く強く惹かれて、自然と目が引きつけられてしまっている、その杏奈の心が生々しく伝わってくる。杏奈の心の動きを追体験するようでとてもいいシーンだった。

 カメラが切り替わり、今度は杏奈が映る。マーニーを見る杏奈。しかし先程とは角度が違って、正面からではなくやや斜め前から映したカットである。つまり、マーニーの視線ではない。

 杏奈から見たマーニーは描かれるが、マーニーから見た杏奈は描かれない。

 

マーニーは杏奈に出会ったか

 いいかげん正直に言えば、不満を感じたのはそこだった。ここというか、その部分。

 マーニーにとっての杏奈を描いてほしかった。話を「療養先で出会った不思議な女の子と、不思議な運命の物語」という枠におさめてほしくなかった。もちろんもともと全体の大枠としてはそのとおりの話なんだけど、マーニーがアンナに出会えたことの素晴らしさが示されていたことも『思い出のマーニー』の美しさだと思うのだ。

 べつにそれがないからダメだというわけじゃない。でも、自分にとって大事なそれがないから悲しかった。公平な見方じゃないが、悲しいと悲しいという声が漏れる。

 最後のオチの部分などで示されるように、湿っ地屋敷でのマーニーの生活はそう幸せというわけではなかった。両親はほとんどそばにいないし、屋敷の人間との折り合いは良くない。マーニーにとっての杏奈は、彼女が何より必要としていた存在なのだ。部屋の窓から眺めて、あの子と話してみたい、一緒に遊んでみたい、気持ちを打ち明けあったりしてみたい、そう考えていた子がいま自分の目の前にいる。話ができる。触れると温かい。

 杏奈=アンナがマーニーに出会えたことが奇跡のような何かであったように、マーニーがアンナに出会えたこともひとつの恩寵のようなものだった。マーニーは決して、アンナのために現れた不思議なめぐり合わせだけの存在ではない。二人は出会ったのだ。互いに必要としていた二人が出会えたのだ。

 映画でマーニーが杏奈に出会えたと言えるのかどうかは、よくわからない。でも、最初からマーニーが現実の人間ではないと示され、杏奈の視線によってマーニーが描かれ続けた映画は、やっぱり杏奈とマーニーの物語ではなく杏奈の物語だったと思う。

 

あなたが誰だっていい

 原作のほうがよかった的論調になってしまってよくないと思うし、それはちょっと不本意でもあるので、映画の素晴らしかったと思う点を挙げておく。

 映画の変更点として「原作ではマーニーパート・リンゼー家パートに分けられていたのが、そのふたつをクロスさせている」というのを挙げた。彩香=プリシラはマーニーとの別れまで登場せず、日記もマーニーとの別れまで出てこない。つまり、原作では別れのシーンまでマーニーが「ほんとうの人間」だと描かれ続ける(それとなく違う世界の人間なのではと示されはするが)。マーニーに会えなくなって、アンナはマーニーを自分が空想で考えた女の子だったんだと思うようになる。それからプリシラらリンゼー家の人々に出会い、アンナはマーニーの日記を読むことになる。

 映画では彩香と日記がマーニーとの別れの前に出てくる。杏奈はマーニーを「ほんとうの人間」ではないと理解する。これは上であげた「杏奈の物語」にもつながってくるし、サイロでのシーンでマーニーが杏奈を「和彦」と呼んでしまうのも、マーニーにとっての杏奈(今までに会ったどの女の子よりも好きな杏奈!)の意味を薄れさせてしまうようで、諸手を上げて賛成できる変更ではない。

 けれど、そのあとのマーニーとの別れで杏奈が言った言葉。杏奈は「あなたが誰だってかまわない」と言った。自分の想像で作り上げただけの人間でしかないとしても、湿っ地屋敷の幽霊だとしても、ほんとうの人間かどうかわからない、また自分を置いていってしまう存在なのだとしても、杏奈は「あなたが好きよ! マーニー! けっしてあなたを忘れないわ! ずっと忘れないわ! 永久に!」と言った。

 目の前にいるそのたったひとりの人を、大切なその相手を、ただ好きだと肯定する、その美しさと尊さ。しかもそれを、愛したいのに愛せないことに苦しんでいた杏奈が言ったのだ。

 

 このシーンはわりと複雑な意味があると思う。

 まず父母や祖母のことで「自分を置いていってしまう」ということに強烈な怒りと悲しみを抱いていた杏奈が、よりによってマーニーに同じことをされてしまうという点。それから、そんなつもりはなかったのだ、許してほしい、と謝罪されるという点。

 父母も祖母も永遠にいなくなってしまったがゆえに誰も杏奈に言ってくれなかったその言葉をもらったということ。そしてその一言をくれたマーニーが、実は他でもない祖母だったということ。

 どうしようもないとわかっているけれど、それでも置いてかれていってしまったことがたまらなく悲しい、というその気持ちを、置いていったその人に受け止めてもらえたこと。

 杏奈の苦しみは、父母や祖母が自分を置いていってしまったことももちろんだけど、それ以上にそのことへの怒りや悲しみを相手にぶつけることが永久にできないということによって生まれていった。ぶつけることのできない感情は、既成の正しさに訳知り顔で諭されながら黒くこごっていくだけだ。結論はわかっている。どうするべきかもわかっている。けれどそこに到達するには経るべき過程というものがあって、杏奈はその過程をたどる手段の喪失に苦しんでいた。

 だから、マーニーとの別れのシーンは杏奈の人格そのものにとって意味があった。

 

 でも、そういうのを抜きにしてもよかったのだ。「あなたが誰だっていい」という一言がよかった。「杏奈とマーニーの物語」ではなかったかもしれないけれど、でもこの「杏奈の物語」の中で杏奈はマーニーをそこまで愛してくれていた。

 マーニーはもし両親と血が繋がっていなかったら血が繋がっていないからこそ両親が自分を大切にしてくれるその気持ちがほんものだと思える、と言った。杏奈は義母が自分を大切に思うその気持ちが本物だとわかっているのに、援助を受け取っていること(もっと言えばそれを自分に隠していること、それを自分が知ったら関係がこじれるのではと義母が思っていたであろうこと)に割り切れなさを感じていた。

 マーニーは実の祖母だった。かつて自分を大切にしてくれて、心ならずも自分を置いていってしまった肉親だった。でも、杏奈にとってはべつにそうじゃなくてもよかったのだ。「あなたが誰だっていい」。「あなたが好き」だと思う気持ちは、マーニーが誰であるかではなく、目の前にいるマーニーその人そのものに向けてのものなのだから。

 

 

---------------以下、その他もろもろ

愛したいのに愛せない

 序盤の札幌を離れるまでで、杏奈は終始義母に冷淡なんだけど、これはちょっと納得いってない(まあ尺とか構成とかでしかたないのかなとは思うけど)。

 (原作の)アンナは本当は確かに義母に感謝していて大事にも思っている。でもどこか壁があって、心配してくるのを疎ましくも思っていて、どうしても愛したいのに愛せない、というか愛することに踏み切っていけない部分がある。疎ましいとかじゃなく、愛されていることは嘘じゃないと思っているのにどうしても心の底から信じることができない、そういうことに苦しんでいる。それはべつに原作だけの特徴ではなく、(映画の)杏奈も同じだと思う。

 でも最初のシーンはそれが見えない。マーニーに秘密を伝えるシーンでそれは示唆されはするんだけど、でもちょっと不十分で、理屈ではわかっているのに信じられないという構造だけが示されるのみになってしまっているように見える。つまり、杏奈の義母への気持ちが見えない。杏奈の苦しみは思いが多重に入れ子のように折り重なった上でのものだと思うので、それでは不十分だ。

 蛇足ながら、原作はこの「大好きだという気持ちは確かにあるはずなのに、その気持ちに踏み切っていけない(素直じゃないとかじゃなくて、自分自身の気持ちを信じられていない)」感じがとても素晴らしく描かれているのでおすすめしたい。

 

ふとっちょぶた

 信子ちゃんがけっこういい子で安心した。ビジュアルから最初はあからさまにいやな子として描かれるんじゃないかと心配していたので(杏奈の本当の苦しみは疎ましい人間に囲まれていることではなくて、疎ましいと思ってしまうこと、そういう自分がいやでしかたないということだから)。信子母が「ナイフをちらつかせたと本人が言った」というのはおやっと思ったけど、最後に謝罪されたときの信子ちゃんの反応を見る限りでは、信子母が勝手に誤解したんだろうと思っている。

 映画で描かれた信子ちゃんはわりとさっぱりした委員長タイプで、お人好しになってしまうのではなく侮辱されたらきっちりやり返し、でもそれで手打ちにする(「はい、これでおしまい!」)という、ある意味で成熟した人だ。やり返さず受け流すというのが大人という見方もあるし、それはある面では事実だとも思う。けれど、信子ちゃんは自分の寛大さを過大評価しない。あえてやり返すことで、あとを引いて憎んでしまう、被害者意識を引きずってしまうことを回避する。そういう自分を冷静にわかった上での対処ができる子だった。

 こういう話でわかりやすい悪い子がでてくるのは好きじゃないのでよかった。悪い大人はいい。それは子供から見た大人というのはどうしても子供からの視点であり、一側面を描いたものでしかないから。その一側面が悪い人に見えるというだけのことだから。たぶん逆もそう。でも、子供の物語で悪い子供がいると留保がなくてつらい。もちろんこれだって、ある視点に寄り添う限りは一側面でしかないというのは同じなんだけど、でも年代が同じだと視点が近すぎてつらい。

 原作で信子ちゃんに当たる子(サンドラ)はもっと魅力がない感じの、単なるつまんなくてちょっと嫌な感じの子として描かれているので(ふつうの子なんだろうけど)、映画でもう少し公平に描かれたことに救われた気持ちになった。

 

ビジュアルなど

 杏奈のビジュアルがよかった。なんかこう言うとあれだけど、個人的にすごく好きなビジュアルだった。マーニーもいかにも想像通りのマーニーという感じでよかった。

 あと彩香ちゃん。かわいい。原作のプリシラはもっと大人しめの内にこもる感じの、はにかむような感じなんだけど、彩香ちゃんはもっと陽性。プリシラのキャラクターがけっこう好きだったのでおおっとと思ったけど、すぐ彩香ちゃんも好きになった。どちらも想像をほわーっと膨らませる感じなのは共通しているんだけど、彩香ちゃんは嫌味のない明るさがあっていい。

 十一のビジュアルが世界名作劇場過ぎてマシューかアルムおんじかという様相でやり過ぎちゃうかと思ったけど、まあ十一のキャラクター自体そんなふうなのであまり浮き上がってしまう感じはなかった。

  杏奈の実母のビジュアルもちょっとあれで、濃い目の化粧にダウンジャケットでバイク二人乗りで去っていくという、なんやその古いイメージ……という感じがちょっとした。しかもその次のシーンが雪道で事故った車だから。おかしくはないんだけどあまりに古典的な無軌道な若者って感じに見えてしまって、もうちょっとなんとかならんかったん、と思う。二人(マーニーと杏奈母)の気持ちがすれ違ったというのが重要であって、愛情を受けられなかったからグレちゃいましたー、というのはなんか微妙に(ホントに微妙に)違う気が。そこまで気になったわけでもないんだけど。

 背景美術は美しかったけど、まあふつうに美しいよなという感じ。でもそれがよかったのではという気もする。宮崎駿映画は同じように美しいんだけどもっとこう視聴者に迫ってくるような、風景が過剰なくらいの生命力を持って呼吸している感じがして、それはとても生き生きしているんだけど同時に息苦しく感じてしまうときもある。『思い出のマーニー』にはそういう感じはなかった。この映画にそういう無闇な生命力は不要だ。霧のところだけはもうちょっと良くできたのではと思わないでもないが。

 杏奈の演技はだいぶよかったと思う。ひとりごとや口調で気になった部分はあったけど、それは演技というか脚本の問題な気がするし。マーニーもそんな不満はないけど、演技でいえば杏奈のほうがずっとよかった。

 よくいわゆる声優の声と演技はいかにもアニメって感じだと言われるけど、声優の仕事してない人の演技もなんというかアニメ用の演技になるもんだなとちょっと思った。まあ変に浮き上がってしまわないようにするだろうから当たり前なんだけど。このへんはまあいい。

 

米林宏昌監督

 パンフレットの監督描き下ろしのイラストがなんかこっちが照れてしまう感じに良くて、というかなんかこう妙にドキドキしてしまう感じで、それでというのは変だけど米林監督はもっと突き抜けたらいいんじゃないかと思った。こういうのは気持ちを抑えてる部分があるのではという無遠慮な忖度があるから思うことで、つまりは邪推であり品のないことなんだけど、でもちょっと思ってしまったのだった。

 品がないのを承知で続けると(よくない)、「『企画意図』より」という文章に「ただ、『風立ちぬ』『かぐや姫の物語』の両巨匠の後に、もう一度、子どものためのスタジオジブリ作品を作りたい」とあるんだけど、そんな重いものうっちゃって一度自分の欲望だけを見つめて描いてほしいみたいなそういうことを思う。米林監督のジュブナイルへの思いや少年少女に寄り添う感じは個人的に好きなんだけど、描き下ろしイラストがあまりによかったので、原作付きを苦労して消化するのと別の道もあるんじゃないかみたいなそういうことを、ちょっとだけ……。

 

また見たい

 原作抜きにした映画単体の評価とかそういうの考えられないくらい『思い出のマーニー』というものに思い入れができてしまっていたので(原作の、というよりも『思い出のマーニー』というものに、という感じ)、なんかこうるさい感じの感想になってしまった。自分でもこんなに思い入れあったんだと驚いている。

 ソフト化したらまた見たい。書いたらいろいろ整理できたので(書かなかった部分もぽろぽろあるが)、もっと映画の良さを見つけられる、楽しめると思う。もっと杏奈の視点に寄り添うことができて、「杏奈の物語」に入っていける気がする。